「創造的休暇」宿谷先生からのメッセージ 

「チエコふぇす2020」は、新型コロナウイルス感染防止のため中止となりました。

残念な気持ちを吹き払うように、エココンテスト「チエコ」審査委員長の宿谷昌則先生からメッセージをいただきました。
今の状況を「創造的休暇」と受け止め、チエコもますます力を蓄えます。

私が「思考停止に抗い、希望ある未来を目指しての活動を 」と言ったのは、5月16日の会を予定どおり開催してほしいとの意味では全くありませんでしたので、念のため申し添えておきます。
それぞれが自らの健康を守るため、また、知らず知らずのうちに感染拡大に加担してしまわないよう暫くの期間、自宅での活動を中心にする必要があるわけですが、この際は日頃 雑事に追われて つい先送りになっていたことに改めて取り組めるまたとない機会・・・そう捉えることにして プラス指向の思索と研究などに時間を使い始めております。「創造的休暇」というわけです。
ご存知だったかもしれませんが、ニュートンが、その最も重要な業績となる仕事を手掛けたのは、ペスト大流行でケンブリッジ大学が一時的に閉鎖になっていた2~3年間(1665~1666年)だったそうです。ニュートンは故郷に戻って、その間にいろいろと深く考えて「重力の法則」ほかを見出したのですね。科学史家の人たちは、その時期のことをニュートンの「創造的休暇」と呼んでいるそうです。そうか!って思ったのですが、ニュートンはその頃25歳。私はもうすぐ67歳、42年も違う(笑)。25歳で重力の法則か?やっぱりニュートンは天才だったんだと思いました。ニュートンと比較するのは烏滸がまし過ぎるかとは思いますが、こういう想像はなかなか楽しいものです。というわけで、私にとっても気分は「創造的休暇」。これをきっかけにして新たな本を(今度は日本語で)とも思い始めています。

また、下記のようなエッセイもいただいています。
合わせてお読みいただければ幸いです。

                                  2020 年 04 月 10 日
改めての 建築環境学_外論 を求めて
                                   宿谷昌則
                         (LEXSdesign 研究室・東京都市大学名誉教授)

中国 武漢で昨年末日に始まった新型コロナウィルス(Covid-19)感染拡大は、この 3 カ月ほど
の まさしくあっという間に全世界に広がってしまいました。収束が見通せるようになるまでには
まだまだ時間が掛かりそうです。
慣れ親しみ当たり前になっていた行動の仕方やその範囲が急に縮小させられるのは苦痛な
しとしませんが、そのような負の側面ばかりに気を取られないようにしたいものです。負の側面
ばかりを思い描いていても、あるいは負の側面を考えつつ 正の側面にも思いを致していても、
物理的な時間の流れには全く違いはなく、それなら後者を取った方がよいからです。それは、
ウィルスや細菌などの感染に起因する発症の予防一般として重要な免疫力の向上にも少なか
らず影響するはずだとも思います。そのようなわけで、この際は、自由な時間が思いがけず増
したのだと前向きに捉えることにして、以前には時間が取れずに後回しにしておいたことに目
を向けるよう努めています。
350 年ほど前の英国ではペストが大流行して、多くの人が集まる施設・集会場などが閉鎖さ
れました。ケンブリッジ大学はそのような閉鎖された場所の一つで、3年間にわたって閉鎖され
たのだそうです。当時 この大学に所属していたアイザック・ニュートンは、閉鎖期間中 故郷ウ
ルソープに戻り、正しく“Stay at home”の生活をしたようです。帰郷の 3 年間は研究から離れざ
るを得ず 無駄になりそうに一寸思えますが、実はその真逆だったのでした。ニュートンはこの
間に思索と研究を深めて「重力の法則」を発見したのだからです。科学史家たちは、ニュート
ンの過ごしたこの時期を指して「創造的休暇」と呼んでいます。
ニュートンのような大発見はそう簡単にできるものではありませんが、誰にとってもそれぞれ
に可能な小さな発見ならできるはずです。そう思って、思考停止に陥ることなく、このような時
間だからこそ、思考をよく運転させていきたいものだと考えています。
私は昨年3月末に大学の定年退職を迎えましたが、その折にそれまでの研究と教育の仕事
を纏めて、最終(再習)講義の話をさせていただきました。私の取り組んできた仕事は「建築環
境学_外論」と呼ぶに相応しいことだったなと思っていますが、この私なりの建築環境学_外
論は、今進行中のコロナウィルス禍を切っ掛けとして改めて構築し直し、さらに深めていく必要
があると思うようになりました。以下は、この1ヵ月半ほどのあいだに改めて考えたこと、あるいは
考え始めたことを、備忘録として記したものです。ご一読いただき何かの参考になるとすれば
幸い、目指すところが共有させて頂けるとしたらなお幸いです。
人も物も往来が簡単・便利になり、私たちの暮らしている世界の(仮想現実的な)時間と空間
は、科学と技術の発達によって途轍もなく狭くなってきていることを、皮肉なことに現在進行中
のウィルス感染拡大現象は、私たちに改めて気づかせることになりました。
現代までに発達してきた科学と技術は大変に有難いわけですが、有難さには実のところプラ
スの側面ばかりではなく、マイナスの側面が潜在していたのだということをも気づかせてくれて
いるのだと思えます。
科学の在り様、技術の在り様について、今起きていることを改めての切っ掛けとして考え直し
ていく必要があると思っています。人や物の往来に自由が保障されていることはもちろん重要
なわけですが、その自由は無限なのではなくて、自由の程度には閾値(あるいは境界)がある
のだろうと思います。
私たち一人ひとりの人生は、生き物としてのヒトから始まって、感覚や知覚をもつ人になって
いき、やがて過去と現在・未来を意識できる人間へとなっていくプロセスの中に創出されていく
のだと思いますが、私たち人間が 在って然るべき空間や時間と良好なる関係を創り続けてい
く営みのなかには実のところ在って然るべき自由に対応する義務があって、そのことを忘れて
はいけないのだと考えます。自由には義務が伴う。このことは、身近な環境づくりの在り様とも
大いに関係しているのだと改めて思います。
自由の程度には然るべき閾値(境界)があるはず・・・などと言うと、不可解に思われるかもし
れませんが、閾値を超えてしまうと、そこは自由というよりは出鱈目を許してしまう領域なのでは
ないか・・・そう思えてくるのです。強者のやりたい放題を許してしまう自由は、弱者が自由を手
放さざるを得なくなる危うさを孕んでいると思えるのです。
危うさが現実になったのは原発震災であり、また、いま起きつつあるコロナウィルス感染拡大
なのだと思います。悪事を働くことが目的化している政治屋たちの跋扈は、然るべき自由の閾
値を超えたところに私たちが身を置いているが故ではないかとも思えます。気が付いてみたら、
自由の反対たる抑圧の下に暮らさざるを得ない・・・そんなことが現実になってはならないと思
いますが、出鱈目が生じ得る自由の領域にはそういう危うさが孕んでいることを改めて認識し
直したいと思います。自由を保持し続けるのに義務が伴うのは面倒なことですが、面倒を忘れ
ていると、弱者に責任を擦り付けて憚らないような偽なるリーダーをいつの間にか生じさせてし
まう。その危うさは、いま進行中のコロナウィルス禍が明らかにしつつあるところです。
出鱈目の発現と蔓延を予防する一助となり得るような自律的な思考能力―自らの頭で考え
判断し行動できる力―を改めて育み続けることの重要性を思います。
窓の開けられない建物をつくって、換気はすべて機械・電気仕掛けで行なえばよい、健全な
空気が保たれているのか否かを住まい手がいちいち判断して窓の開け閉めをするのは面倒だ

から。照明はすべて一定・不変の照度を可能とする電灯に頼ればよい、窓から入ってくる直射
日光や天空光は変動が鬱陶しくて邪魔者以外の何物でもないから。暖房や冷房は、暑さも寒
さも忘れさせてくれて生産性を向上させてくれる一様・不変な温湿度を可能とする機械・電気
仕掛けの冷暖房設備に頼ればよい、暑さがあるからこその涼しさとか、寒さがあるからこその温
もりなんて面倒くさいから。
科学と技術の粋は、身近な環境空間に以上のような錯覚的な自由を与えてくれましたが、
実のところ、それは在って然るべき自由の閾値(境界)を超えた出鱈目の危うさを伴っていたの
だと思えます。コロナウィルス感染予防の件で、窓開けなど換気を励行するようにと言われ始
めていますが、換気ばかりでなく照明や暖房・冷房の在り様について改めて考え直す必要が
あるのだと思います。
原発震災から 9 年が経って、いま新たにコロナウィルス人災が始まった状況で、以上のよう
なことを考え始めたわけですが、上に述べたような自由の閾値がどのあたりにあるのか、あるい
は抑圧の心配をしないで済む自由とは何か、その自由に伴う不便さは実のところ私たち一人
ひとりの手づくりであるからこその創造的な暮らしを可能とするだろう、そのような環境づくりは
どのようにして創出されていくものなのか。そういったことを、科学・技術の在り方を問い直して
いく中で改めて見い出してきたいと思います。
どのような分野の学問でも、対象とする現象なり事象なりがあるわけですが、これは人を含む
自然現象、あるいは人間を含む社会事象の部分を抽象して、その抽象した部分について学び
問い 問うては学んでいく営みだと思います。抽象することは必ず捨象することを伴います。学
問すれば、抽象したところの内に在ることには詳しくなりますが、捨象したところは見ていない・
考えていないのですから、そこについては無知なわけです。無知の程度は相対的に増すかも
しれません。専門バカという俗語は、このことを指しているのだと思います。
私なりの建築環境学_外論も、この意味で捨象していたことが多々あったことに、現在 進行
中のコロナウィルス禍は改めて気づかせてくれている、そう思います。気づかなければ、運転し
続けていたつもりの思考が実は停止に近い状態だったかもしれない。そう思えてくるのです。
今を改めての出発点として、希望ある未来を見出していけるような建築環境学_外論をさら
に深めていけるよう学び直し、愉快に展開して、延いては希望ある未来を展望できるようにして
いきたいと思う次第です。

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